100年の長きにわたるつながり。
次の時代に着実に踏み出す一歩。
そして、希望あふれる未来(さき)につなげていくもの。

人を結ぶ、時代を結ぶ、そんな企業であるように、
社員一同 全力で努力、邁進する所存です。

“久住電気商会” 創業

大正7年(1918年)5月

初代社長 久住健三郎、新潟市古町通7番町に「電気通信工事請負業久住電気商会」として創業する。

大正13年(1924年)
新潟電力、市役所、県庁などの請負人資格を得て主にして電灯電力工事を為す。

 

大正7年(1918年)
新潟市で米騒動。
大正11年(1922年)
新潟市街自動車が新潟市内で路線バス営業を始める。大河津分水が通水する。
昭和初期

初代社長を先頭に作業現場で陣頭指揮を執り地域の発展に大きな役割を果たしてこられた先人達の偉業が窺える。なお、当時の作業着はハッピであった。

当時の仕事現場

当時は水田の中で矢板を打ち、水をせき止めての建柱作業。足下は泥でぐちゃぐちゃの中での作業も多かった。当時の電信柱は木柱であった。

昭和5年(1930年)
荏原製作所の県下総代理店を契約し、揚排水、水道用ゐのくち式ポンプの販売を為す。
昭和14年(1939年)〜

当時の本社

昭和16年(1941年)3月
丸新鐵工を設立し諸機械の製作修理並びに販売を為す。
昭和17年(1942年)12月
鉄道通信、鉄道電力工事を主として施行してきた工事部門は業界統制のため鉄道電気工業株式会社に統合され新潟第一作業所となる。
昭和4年(1929年)

信濃川両岸の埋め立て工事が始まる。3代目萬代橋が完成。

昭和26年(1951年)5月
日本電設工業株式会社(旧鉄道電気工業株式会社)の機構改革による作業所廃止に伴い全員を収拾して工事部門を拡充強化する。
昭和26年(1951年)9月
内容の増強に伴い経営の合理化を図り、法人組織に改組、株式会社久住商会を設立(資本金500万円)。
昭和20年(1945年)
5月、アメリカ軍の爆撃機による新潟港への機雷投下が始まり、港が封鎖される。新潟が原爆投下目標の1か所となる。8月、アメリカ軍の艦載機による空襲で多くの人が亡くなる。
昭和24年(1949年)
新潟大学が開学する。

K式工具を開発

記念すべき当社開発のK式工具。主に日本国有鉄道(現JR東日本)様、日本電信電話公社(現NTT東日本)様など多数のお客様に御利用いただいた。

昭和26年(1951年)

国立の鉄道技術研究所構内において、第一回 全国鐵通信技術競技大会に使用された。

使用されたK式工具

全国各地方選技選手

昭和27年(1952年)1月
丸新鉄工所を吸収改組して古町12番町にて専ら社長考案にかかる特許品K式通信線路ならびに信号用改良工具の設計制作および販売を為す。(当時の仕事現場 写真あり)
昭和30年(1955年)3月
産業発展に寄与したる功績により軌条穿孔機に対して関東地方表彰の優秀賞を発明協会長より授与される。

 

昭和27年
新潟港の機雷掃海が終わり、港の安全宣言が出される。戦後初の外国船タンカーが入港する。

新潟大火

昭和30年(1955年)10月

新潟大火、昭和30年10月1日午前3時、医学町県教育庁から出火。火は強風にあおられ市内中心部へ広がった。
火事場の馬鹿力で家財道具を運び出し避難する人達。
火勢が止まった新堀通と古町通7番町。
昭和32年(1957年)2月
台湾鉄道管理局へK式軌条穿孔機の納入資格を認められる。
昭和35年(1960年)1月
当社と品田電業社(柏崎)の両電気、通信部門が合併、新潟電話工業株式会社(現 株式会社TOSYS)を設立する。
昭和36年(1961年)

久住商会法人設立十周年記念

 

昭和30年
新潟大火で市役所をはじめ、中心市街地の多くの建物が焼失。
市街地の堀の埋め立てが本格化。
昭和33年
アメリカ軍が新潟飛行場を返還。
新潟駅が移転し、現新潟駅が開業する。
4代目市役所庁舎完成。
テレビ本放送開始(NHK新潟放送局、ラジオ新潟)。

新潟地震

昭和39年(1964年)6月

新潟を襲った悪夢。
昭和大橋の落橋と市内川端町4丁目の本社事務所前の通りで事務所は5度、倉庫は10度の傾斜で半壊状態の中、 工事関係者は日本国有鉄道(現JR東日本)様の通信回線東北電力様の通信設備の復旧作業、市内構内交換機設備の復旧に全力を尽くした。
改めて自然の恐ろしさに気付かされた。家という家は傾き、橋は川へ少し前の新潟大火の悪夢をまた、思い出した。

ちょうどその時、社長は新潟にいなかった。地震後に新潟に戻ってきて現地を確認している時の1枚。

地震復興後の久住電気

地震復興後も、この様なかたちで業務を行っていた。
尚、当時の移動は、バイクを利用する事が多かったようである。

昭和39年(1964年)6月

久住辰夫が取締役社長に就任。
運輸省第一港建設局の電気通信、電気配線工事の請負資格並びに材料納入資格を認められる。
新潟大地震により本社事務所および倉庫は相当な被害をこうむったが、翌40年1月修築改装成る。

昭和40年(1965年)12月
資本金を1,200万円に増資。
昭和41年(1966年)5月
設立15周年記念式典並びに記念パーティーをイタリア軒において拳行。
昭和43年(1968年)5月
創立50周年記念式典並びに祝賀会を市内鳥屋野苑トロピカルホールにて挙行。

 

昭和39年6月

昭和39年6月16(火)
新潟地震発生(M7.5)。

完成直後の昭和大橋が落橋

弁天橋通へ移転

昭和44年(1969年)12月

本社を現在地(新潟市弁天橋通)へ新築移転。

3代目社屋 航空写真

昭和45年(1970年)1月
資本金を2,400万円に増資。
昭和45年(1970年)12月
資本金を3,600万円に増資。
昭和53(1979年)年9月
小出支社を六日町(塩沢町竹俣新田)へ移転。
昭和62(1987年)年9月

事業発展に伴い、社名を久住電気株式会社に変更。
久住辰夫が取締役会長へ、久住健吉が取締役社長に就任。

 

昭和45年(1970年)
米の生産調整(減反)が始まる。翌年、福島潟の干陸式が挙行される。
昭和47年(1972年)
関屋分水路通水。
昭和48年(1973年)
新潟空港初の国際定期航空路、新潟-ハバロフスク線開設。新潟市民病院開院。新潟バイパス・亀田バイパスが開通する。万代シティバスセンタービル・ダイエー新潟店開店。
昭和57年(1982年)
上越新幹線・新潟-大宮間が開通する(1985上野まで、1991東京まで開通する)。
平成3年(1991年)6月
資本金を5,000万円に増資。
平成7(1995年)年4月

同地に新社屋を建設する。

平成13年(2001年)2月
ISO9001認証取得。
平成6年(1994年)
磐越自動車道・新潟-安田間が開通する(1997、全線開通)。
平成13年(2001年)
黒埼町と合併する。新潟スタジアム(ビッグスワン)が完成。
平成14年(2002年)
柳都大橋・新潟みなとトンネル同時開通。2002FIFAワールドカップTM開催(ビッグスワンで試合)。

7.13水害 中越大震災

平成16年(2004年)5月

7.13水害の当日、三条・長岡方面へ向かっている最中ラジオから大雨、洪水警報が発令され、途中荒れ狂う刈谷田川が見え恐ろしく早々と帰社した記憶が鮮明に残っている。

平成16年(2004年)10月

中越大震災では、凸凹道を通り、多くの仮設住宅建設現場に材料を運搬。地震の影響により、断線した信号機の復旧作業を行った。 道路事情の悪化で現場にたどり着くのも一苦労。緊急車両の登録を行い、凸凹になった高速道路で小千谷に向かって、復旧活動を行った。作業中の余震はとても怖いものであった。

 

平成16年(2004年)
7.13水害
中越大震災
新潟市歴史博物館(みなとぴあ)開館。
平成17年(2005年)
新津市、白根市、豊栄市、小須戸町、横越町、亀田町、岩室村、西川町、味方村、潟東村、月潟村、中之口村、巻町と合併する。
平成19年(2007年)10月

久住健が取締役社長に就任。

平成20年(2008年)5月

創業90周年

平成30年(2018年)4月
ISO9001を返上し、自主基準(K基準)を制定し運用を始める。
平成19年(2007年)
政令指定都市。

久住電気 創業100周年

平成30年(2018年)5月

創業100年を迎える。

to be continued.

 

平成31年(2019年)
新潟開港150周年